2016.10.25鑑賞
- 監督:三隅研次
- オープニングはスプリットスクリーンから始まる。実験好きな人なのでこういうことをやるのに違和感はないけど、初めて見るような気がする。他でやったことはあるのだろうか。
- オープニングのつづき。画面右から左へざっざっと歩いていく同心たちが、幾何学的に配置される。手前と奥、左・中央・右、均等に並べられて歩いていくので人工的な印象を受ける。そこに同心規則を読み上げる声がかぶさってくる。
- いよいよ北町奉行書の室内、同心規則への指印が押される場面。刀を抜いて指をかるく切るショットが流れるように入るが艶かしい。ポンポンポンと音が出そうな感じで押されていく指印。しかし、一人だけ押さないやつがいる。この物語の主人公、人呼んで「かみそり半蔵」である。形式ばかりで守られてもいない規則に誓いは立てられないというのだ。
- すぐさま、お叱りが飛ぶ。左奥にいる人物にピントがあった構図から、いきなり右手前の人物が振り返って、その叫ぶ顔にピントが完璧に移動する。左奥と右手前という構図も、そのピント移動もシネスコの基本的なテクニックだが、それを高度な水準で達成し、かつ振り向くというアクションを入れることで目に突き刺さるようなショットになっている。
- 半蔵が自分自身に拷問をかけるシーン。勝新が汗をかいていて、深い影が落ちている。これも強いショット。
- 半蔵の下半身トレーニング。どう見ても陰茎のかたちにへこんでいる台座が出てくるので、おかしいなと思っていたら、陰茎のぼかしショットさえ登場する。あ、と思うともう、すりこぎ棒みたいなものでイチモツを叩いていくのだ。そのあと、米を入れた俵のなかにイチモツを突っ込んでいく。これは前後運動として撮られる。下半身トレーニング含め、この映画の濡場はすべて前後運動か上下運動として撮られる。セックスから純粋に運動を抽出すると、ピストン運動になる、という三隅の機械的・即物的な判断だろうか。『剣』の腕立て伏せもそのように撮られていた。三隅はセックスも腕立て伏せも同じ方法論で演出できる(現代でこういうことをやったのはシャマラン『アンブレイカブル』のベンチプレス)。
- 上司である大西の弱みを握ろうとする半蔵(こんな部下は嫌だ)。大西の囲んでいる女には陰毛がなかった、という噂話を聞きだすのだが、そのときの情事を盗み見た人物視点の回想シーンのようなものが流れる。音がないことで回想シーンらしさを出しているようだ。三隅はセックスもオブジェとして撮るのでとても滑稽だ。結合部を隠すのはいつもながらのアシンメトリーな構図で無理なくこなしている。セックスはやはり単純な上下運動として撮られる。
- という具合にイカれた原作を三隅研次が審美的に処理していくので、結果として異様な迫力の映画になっている。