2015/2/22鑑賞
- 監督:クリント・イーストウッド
- 以下は公開当時の感想。
- 総じて、ショットに目を見張るものはない映画である。まあ最近のイーストウッドはそういうとこで勝負する映画を撮らないけど。画面だけを見ても、他のイラク戦争映画とこれとを区別する印はない。ファーストショットからして既にショボい。嫌な予感がする。
- 視覚的な設計として「おお!」と思わせられるのは、クライマックスの砂嵐に包まれた銃撃戦・撤退くらいだろうか。
- だが、素直な英雄譚というわけではない。
- ありきたりだけど、この映画には「見ることの主観性」という主題があるように思った。
- 冒頭のイラクでの場面、少年を射殺するかどうかを悩むブラッドリー・クーパーが判断を頼った本部から、「君が判断しろ」と返されたことを思い出そう。
- 少年がテロに加担しているのか、それとも無害な市民なのかを判断するのはブラッドリー・クーパーただ一人しかおらず、それを確認する第三者はいない。この時点でもうスナイパーが目にするものは、基本的には主観であることが示されている。
- ただ、この時点ではまだ、ブラッドリー・クーパーの見るものと、観客の見るものは共有されている。そのおかげでこの冒頭のシーンは本作で最もスリリングで感情移入できる、普通のエンタメにおける「いいシーン」になっている。
- それが危うくなりはじめるのが、訓練のシーンで、ブラッドリー・クーパーがヘビを撃ち殺すところである。ここでは、観客はヘビを目にすることができないし、訓練を担当する指導官についても同様だ。ヘビを見たと口にするのは、ブラッドリー・クーパー本人しかいない。
- そしてとうとう、ラストの敵スナイパーとの対決においては、ブラッドリー・クーパーの照準の向こう側にいる敵スナイパーの姿が、豆粒のようにしか見えないのである。
- あれだけの超長距離の狙撃というのはカメラで演出できる距離を超えているために、どこか抽象的なシーンになってしまうのだなとも思った。
- ただそう考えると、ブラッドリー・クーパーが敵のスナイパーを射殺したことを証拠づける、射殺した瞬間のアップカットを入れるべきではないように思える。それまでの演出をすべてふいにしてしまうような悪手のように思えるのだが、一体イーストウッドは何を思ってあのカットを入れたのか。それとも誰かに「入れろ」と言われたのか、などと色々と考えてしまう。
- あの場面は、CGで描写される弾道もショボ過ぎて、かえって裏があるのではないかと思ってしまうくらいにショボかった。
- この射撃の直後に、ブラッドリー・クーパーは妻に電話して、「おれ辞めるよ」「うちに帰る」とか報告しているシーンはなんかヤバイ。もう画面には砂嵐が立ち込めているし、なんか全然感動的じゃないし。ブラッドリー・クーパーめっちゃ虚ろだし。
- それでまあ、敵スナイパー射殺のあとは、例の砂嵐下での撤退シーンである。ここにきて観客はとうとう、何も目にすることができなくなる。厳密に言うと、何も見えないわけではないが(あんなに視界不良なのに、アクションがきちんと繋がっているのは驚きだ)、まあ映画の正攻法ではないことは確かだ。ともかく観客には何も見えなくなる。
- いわば映画の自殺とでも言いうる演出を見せつけられるわけだし、その砂嵐の中に狙撃銃とか、聖書とか、そういうブラッドリー・クーパーにとって大切だったものが置き去りにされるので、「ああ、とうとうこの英雄は画面の向こう側に行ってしまったのだな」と思うわけだ。
- 都度4回イラクとアメリカを往復する映画なので、扱ってる内容は違うけど『捜索者』みたいな帰郷の西部劇という印象がある。
- 上では「見ることの主観性」と書いたが、それは同時にこの映画におけるブラッドリー・クーパーを所属している国家と切り離し、独立した個人、英雄として描くための手法なのかもしれない。
- 『捜索者』のリメイクとしてはスピルバーグの『宇宙戦争』のラストが割とそのまんまなんだけど、やはりこの『アメリカン・スナイパー』も「家に帰れない」映画になっている。
- 傷痍軍人と交流し、彼らの心を救うことでなんとか安らぎを得たかのように見えるスナイパーは妻から「元通りになってくれてよかった」と言われるまでに回復する(が、観客はあの砂嵐のシーンを見てしまっているために、まったくそのようには見えない)。
- 台所でカウボーイの真似事をして妻に拳銃を向けるシーン、めっちゃ怖い。
- こういう風に全体を解釈することができるので、ある意味では分かりやすい作品だとは思う。映画として面白いのかと言われると、どうなんだろうという気もする。
- ただ体験としては、あの砂嵐と、最後の葬式みたいなエンドロールに活力を奪い去られてしまったので、見る観客に影響や効果を与える映画ではある。
- なお、以上は本体となるブログ記事のリメイクである(ほぼ同じだが細かい言い回しを修正した)。