呉衣の映画トンネル

映画の感想(ネタバレ有)を置きます

ゴーストシップ

2013/09/13鑑賞

  • 監督:スティーブ・ベック
  • 西暦1962年5月、アメリカへ向けて出航したイタリアの豪華客船アントニア・グラーザ号が突如消息を絶った。それから40年後、海難救助や船のサルベージ等を請け負っているアークティック・ウォリアー号のクルー達は、謎の飛行機乗りからベーリング海沖を漂流している謎の大型船を回収する話を持ちかけられる。その謎の大型船こそアントニア・グラーザ号だった。現地に急行したクルー達は様々な怪奇現象に襲われ、探索の中止さえ考えたが、大量の金塊を見つけたことでそれを持ち帰る決心を固めた。しかし、金塊を持ち出そうとしたところで不可解な事故に見舞われてしまう。
  • 題材はB級だが、予算には余裕があるようで、アントニア・グラーザ号の幽霊船ぶりは美術と照明によって存分に表現されている。特に大ホールは、暗い極彩色におおわれた美術の数々が、どこからか差し込んでくる光や、水面を反射してゆらゆらと揺れる影と交錯し、ゴージャスな光景になっている。弾痕から噴出してくる血でいっぱいになるプール。ガラスの檻に入れられ、浮遊する水死体。侵入者を誘惑するグラマーな黒人歌手の亡霊。まず間違いなく、怪奇映画を見たという実感は得られる映画だ。また、クレジット含めまるでロマコメか音楽映画かのようにはじまった冒頭を、大殺戮によって裏切るゴアシーンは出色の出来栄え。製作はロバート・ゼメキスジョエル・シルバーが共同設立したダークキャッスル・エンタテインメントで、あのジャウム・コレット=セラが『蝋人形の館』、『エスター』、『アンノウン』を撮った出身地でもある。子役時代のエミリー・ブラウニングが女の子の幽霊。他にも、こぎれいな役を貰えるようになる前のカール・アーバンもいる。ものすごい爆発はあるし、ショットガンで吹っ飛んだ人間をスローモーションで捉えるカットもあるし、もちろんクラシックホラーは志向されているが、一方で海難アクション×女主人公映画という同時代的な要素も感じる。メタルもかかる。

イコライザー2

2018/10/09鑑賞

  • 監督:アントワーン・フークア
  • タクシードライバーとして日々を過ごす元CIAの凄腕エージェントのロバート・マッコールは過去と決別し、夜な夜な悪を裁き、人助けをして、第二の生を謳歌していたが、旧友のスーザン・プラマーが担当した事件が不穏な展開を見せる。その事件の裏で関わっていたのは、過去の自分の同僚たちだったのだ。
  • ホームセンターの仕事を辞めて、タクシードライバーになった様子のマッコールさんが、オープンワールドゲームのサブクエストを消化していくかのごとく悪人を裁いていくパートが全体のかなりを占める。フークアの出世作『トレーニングデイ』のように、自動車を自分の事務所として使うデンゼル・ワシントンと、その周囲にいる市井の人々が散文的に描き出されていくのだが、同時に悪や暴力が身近なものとして普遍的に存在していることも描写される。それを「イコライザー」であるデンゼル・ワシントンは圧倒的な暴力によって制裁するのだが、全くもって容赦がなく、しかも生殺与奪を完全に握って、自由な裁量を振るっている。あるときは改心の痛みか、肉体の痛みかのいずれかを選択させ、あるときは選択の余地なく肉体を痛めつける。現代の世相に反して、強い信念をもって行動し、他人の世話を焼きまくるマッコールさんはある意味で悪役よりもよほど観客から距離の遠い人間に見える。後半はハリケーンの接近と共にじりじりと盛り上がり、過去の同僚たちとの凄惨な殺し合いが行われる。無人のゴーストタウンでの決闘という西部劇的なシチュエーションを作るため、ハリケーンを用意するというのは強引でいいなと思った。ラストバトルが『ペイルライダー』ばりの恐怖・スラッシャー映画的な演出になるのは同様なのだが、前作とは異なりギャグ要素が削ぎ落されているため複雑さは減衰しているように思った。その代わり、湿っぽさは強まっている。なにせ「政府に捨てられたキリングマシーン」という共通点を持った人間たちが、かたや殺し屋として活動し、かたや世直しヒーローとして悪を裁いているのだ。「この世に善も悪もない」と語る悪役はとても人間くさく、言ってしまえば小市民的である。仕事は選べない。このことは学校をサボって麻薬売買をして、ギャング団に片足を突っ込んでいる黒人の若者とのエピソードでさらに補強されている。生活のために人は容易に魂を売り渡し、シニズムを口にするが、ロバート・マッコールはそのような落とし穴にははまらないのだ。しかし、何も知らない家族を背景にして「お前ら全員を殺す」と宣言したり、決戦の地であるゴーストタウンに殺された旧友の写真を貼ったりするマッコールさんが本当に病んでいないのか、気にかかるところではある。なお、ラストシーンは非常にマイケル・マン的な一枚画だった。

ザ・フォッグ

2018/10/26鑑賞

  • 監督:ジョン・カーペンター
  • 町の誕生100周年記念祭に沸き立つ小さな港町アントニオ・ベイ。だが、突如現れた濃霧が街を覆い、それに呼応するように、殺害直後にもかかわらず遺体が腐敗するという謎の殺人事件が発生する。
  • 初期の作品で、ショットの強度に拘っている節がある。大体の映画監督は初期ほど照明とかに拘る気はするけど。冒頭、短すぎず長すぎない一定のリズムで刻まれるカッティングで、夜中の街の風景が音楽的に配置される。カタカタ揺れるミラー。落ちる給油機。ライトがつく自動車の群れ。ガソリンスタンド。霧とともに怪奇現象が忍び寄って来る! グッとくる海の撮影多し。二点透視的な、あまり見ないような奥の出し方をするショットがいくつか。画面の半分を潰して狭い奥を見せるショットが多いなー。カーペンターは奥を見せるのがうまいと思ったけど、その半分は手前を作るのがうまいおかげなんだろうね。でも非アクションのカーペンターでそこは不満点。ひとつの街が舞台として出てきて、そこに住む人々の群像劇になっているんだけど、街の個々のスポットの距離感がいまいちわからないし、出した人物も消化不良気味。

プレデター

2018/02/27鑑賞

  • 監督:ジョン・マクティアナン
  • 密林に召集されたダッチ率いる特殊部隊が、ゲリラにさらわれた人質を助けるためにミッションに就くが、当のゲリラを壊滅させたところで、ミッションに隠された別の目的が明かされることになる。そして、救出がないまま、密林を狩場として宇宙人の襲撃にひとりまたひとり隊員が殺されていく。
  • とても陰惨な80年代的ジャングル殺戮映画だった。軍事絡みの考証や、ジャングルでのサバイバル戦を真面目にやっている感触があり、全体的にかなり地味なのに、弾薬と火薬の量が異常なので神経症的にみえる。人質の射殺。皮を剥がれ吊るされた死体。砕かれる頭部。もがれたあとも機関銃を発砲しつづける腕。そして、なすすべなく殺されていくマッチョたち。『虐殺器官』の原風景としてこういうジャングル虐殺映画があったのだろうかと思う。『ティアーズ・オブ・ザ・サン』はその末裔といえるのだろうか。戦闘シーンはスローモーションが多用されていて、カットの繋がりもあまり明快ではないせいかちょっとだけペキンパーっぽい。そして、すごい落下スタントが何度もある。滝つぼへの落下! シュワちゃん以外のメンツもかなりガタイがよく、明らかに筋肉フェチ向けのカットもあるなか、自傷シーンや血まみれにされる部分も多く、これもフェチ向けなのだろうかと邪推してしまう。シュワルツェネッガーもエイリアンには、身体能力で圧倒されボコボコにされてしまう。

エスター

2015/3/17鑑賞

  • 監督:ジャウム・コレット=セラ
  • 2回くらい見ているはず。
  • カットはかなり割ってるけど見づらいわけではなく、前後のカットでの変化も大きいので視覚的にもスピード的にもあまり飽きが来ない。現代の娯楽映画はこのくらいの塩梅でいいんじゃないか。
  • エスターとの初対面のシーンは、まず絵を描いているエスターの背中から映す→そのあと顔出し、という伝統的な組み立て。その後の会話ではキャンバスの方から見たエスターの顔のアップを繰り返し挿入することで違和感を演出。
  • 照明のせいか、加工のせいか、その両方のせいか、全体的に雑味が少なくて人工的なルックだった(嘘っぽい)。

スカーレット・ストリート

2018/10/17鑑賞

  • 監督:フリッツ・ラング
  • 銀行で真面目に勤め上げてきた冴えない中年サラリーマンのクリス・クロスは、暴漢に襲われている美女キティ・マーチを助ける。女優を自称するキティに魅了されたクリスは、とっさに自分が金持ちの画家だと嘘をついてしまう。実はキティは娼婦で、暴漢に襲われているというのも、ヒモのジョニーと揉めていただけだった。クリスのことを聞いたジョニーはクリスから金を毟ることを考え付く。5年前に未亡人アデルと結婚したクリスだったが、前夫を偶像化するアデルには趣味の絵も認めてもらえず悪夢のような結婚生活を送っている。このような背景があり、キティはまんまとクリスに高級なアトリエを借りさせ、自分を囲わせることに成功する。そのためにアデルの生命保険だけではなく会社の金さえ使いこんでしまうクリスだったが、一方で偶然にもクリスの絵が批評家に見出されたことを好機と捉えたジョニーはキティを新人画家として売り出してしまう。これを見たアデルは夫のことをまったく評価していないので、クリスがキティの絵を盗作しているのだと思い込み彼を激しく非難する。訳の分からないままキティを問い詰めたクリスは、なにぶん根が善良なので、お金に困ったので絵を売ってしまったというキティの嘘を信じ込み、むしろ自分の絵が高く評価されたことを喜び、キティ名義のまま個展まで開催されても幸せそうである。そしてアデルの前夫ヒギンズが実は生きており、彼に強請られたのでアデルが貯め込んでいるヒギンズの生命保険を盗み出すようにそそのかして夜中に家に引き入れ、強引にアデルと引き合わせる。晴れてアデルとの結婚生活から解放され、キティと結婚できると思い込んだクリスだったが、アトリエには愛し合うキティとジョニーの姿があった。ひと悶着あったものの一縷の望みをかけて求婚するクリスだが、そこにはキティの容赦ない罵倒が向けられ、これには善良なクリスもたまらずキティをアイスピックで滅多刺しにする。犯人はジョニーということになり、自分を騙していた悪女も始末できて万々歳かと思いきや、なにぶん根が善良なのでクリスはそのことを気に病むのだった。
  • 音響の映画と言ってもいいほど、音を中心にして映画が組み立てられている。ラングといえばドアの作家だが、本作でも実に多くのドアがバタンと閉められ、多くのドアがノックされ、多くのドアが二重に開け放たれている。ドアがバタンと閉められれば、クリスを演じるエドワード・G・ロビンソンが拒絶されたことが分かる。音そのものが拒絶の強さを教えてくれるのだ。そして、ジョニーとキティの関係がクリスにバレてはいけないこの映画において、不意の訪問者を告げるノック音はそれだけで見る者を宙づりにするサスペンスだ。また、悪妻アデルが夫をなじるときのキンキンとした耳障りな声。これこそが家庭の悪夢である。反復の多い映画でもあり、くりかえされる死者の幻聴という中心的なモチーフは序盤から執拗にその尻尾を見せつづける。誰もが指摘するであろうレコードの針飛びは、序盤に何気なく表れたあと、ラジオのノイズという別の小道具で反復され、いよいよクリスが愛する二人を発見する際には「LOVE,LOVE,LOVE,LOVE...」と意味深な歌詞を反復させる。このときクリスは決定的に壊れてしまい、二人が死んだあとも、ネオンの点滅とともにセリフが反復されることになるのだが、このように超常的な演出よりもずっと恐ろしいのがキティ演じるジョーン・ベネットの笑い声とも泣き声ともつかないあの声だ。騙されていたことを知ってもなお求婚してくるクリスを前にしてジョーン・ベネットは枕に突っ伏して、そんな彼を笑うのだが、クリスはそれを泣いているのだと勘違いする。しかし実際にその声は、笑い声のようにも聞こえるし、泣き声のようにも聞こえる。もちろん笑い声のようにしか聞こえない人もいるだろうし、泣き声のようにしか聞こえない人もいるだろう。このような曖昧さのなかに、日常から悪夢へと滑り落ちる瞬間があるのだと思う。エドワード・G・ロビンソンに投げつけられる罵倒の数々はまぎれもない現実だが、あまりに容赦がないので当人にとっては現実のようには見えない。そして、よりにもよってそんな修羅場でアイスピックが床に落ちてしまうことに感動するのは、アデルに拒絶され、ドアをバタンと閉められたとき、手にしたナイフが落ちたことを覚えているからだし、二人の情事を見たそのショックで鞄を落としてしまったことを覚えているからだ。ナイフとは違い、そのアイスピックは拾われ、使われることになるだろう。

  • 以上は本体ブログからの借用。

clementiae.hatenablog.com

アステロイド・シティ

2023/9/7鑑賞

  • 監督:ウェス・アンダーソン
  • 1955年、アメリカ南西部に位置するアステロイド・シティは、街というよりも、荒野にぽつんと現れたパーキングエリアと呼称したほうがよさそうな場所だ。施設は、ガソリンスタンド、モーテル、ダイナー、建設途中で放棄された高速道路、隕石が落下してできた巨大なクレーター、そして研究施設しかない。
  • そのアステロイド・シティに、科学賞の栄誉に輝いた5人の天才的な子供たちとその家族が招待されたところから物語は始まり、やがて訪れた授与式の途中で宇宙人が現れてしまう。
  • ウェス・アンダーソンの2年ぶりの新作には、西部劇的な舞台とSF映画のガジェットが組み合わされているが、取り急ぎそれは大して重要なことではない。
  • 驚くべきことは、予告編でも触れられておらず、公式ホームページに掲載されているあらすじには一切書かれていないことだが、この『アステロイド・シティ』は実は劇中劇で、冒頭は舞台裏の紹介から始まる、ということだ。
  • 脚本家の登場。役者の紹介。舞台セットの説明。舞台袖の解説。
    • ここでは、三人の人物をスタンダードサイズの画面(往年の映画の標準的なアスペクト比)に入れるにあたって鉄板の構図である、三角形の構図をウェスが高い次元で再現できることが示されているが、ひとまずそれも本題ではない。
  • ジェイソン・シュワルツマンが四人の子供たちに隠していた妻の死を明かす場面では、思わずその痛ましさに眼をそむけたくなるのだが、ふとこれが演劇であり、すべてが嘘だということを思い出すことで気をそらそうとしている自分がいる。
  • したがって戦場カメラマンであるジェイソン・シュワルツマンが、あたかも職業的にこびりついた動作であるかのようにカメラのシャッターを切るたびにも、それが職業的な運動ではなく台本にある通りの行為であるのだと思い返すことになるわけだ。
  • そういった風に観客が自主性を発揮せずとも、当然、映画はたびたび観客に冷や水をかけてくる。ジェイソン・シュワルツマンは舞台裏ではべりべりとその見事な顎髭をひっぺがし、パイプではなく紙タバコで一服するし、劇中では妻帯者だが、舞台裏では男の脚本家と懇ろになるのだ。
  • ウェス・アンダーソンが劇中劇や枠物語を用いるのはもちろんこれが初めてではない。『天才マックスの世界』では学園祭で妙に舞台美術に力の入った演劇が演じられ、『ライフ・アクアティック』では絵本のように嘘くさい世界観で海洋体験家がドキュメンタリー映画を撮影するという転倒があり、『グランド・ブダペスト・ホテル』はストーリー自体が何重にも入れ子構造になっている。
  • また『アステロイド・シティ』では、妻を亡くした戦場カメラマンが、フィクションの魔法を借りてその妻と再会する。
  • これもまた、別に珍しいことではない。死者との再会はフィクションにおける、いわば伝家の宝刀だ。死んだ祖父とつながった電話や、タイムトラベルで母親に会いに行くヒーロー、そのように虚構の奇跡を利用して、”たまたま彼岸に繋がってしまう”ことはよくある。
  • しかし、『アステロイド・シティ』で起きている事態はいささか複雑だ。ジェイソン・シュワルツマンの亡き妻は、上映時間の大半を占める劇中作のなかでは殆どまったく出てこない。生前の写真が一枚、残されているだけだ。
  • 上演の途中で役がわからなくなったジェイソン・シュワルツマンが脚本家に助けを求めるが「わからなくてもいいから演じろ」と突き放されたので、数分だけ劇場を抜け出しベランダでタバコをふかす場面で、ふとカメラが横移動しはじめる。
  • これもまた珍しくはない。横移動するカメラはウェス・アンダーソンのトレードマークでさえある。
  • しかし、そこから奇妙な転倒がはじまる。そのカメラが移動した先には、出番をほとんどカットされた亡き妻役の女優がいたのだ。
  • 通常、フィクションの中で起きる死者との再会は虚構の上に築かれる。タイムトラベルという虚構や、夢という虚構、録音された声や、残された伝言、渡し損ねた手紙などの上にフィクションの魔法はかかる。
  • しかし『アステロイド・シティ』では事情が異なる。〈アステロイド・シティ〉自体が虚構であり、妻が亡くなったことに苦しんでいるジェイソン・シュワルツマン自体もまた虚構であるため、むしろ逆に現実や、舞台裏がフィクションの悲しみを救済することになるのだ。
  • あたかもわたしが、母親の死を知らされて受け止めきれずにいる三人の幼い娘たちを見て心が痛んだので、〈アステロイド・シティ〉が(いや『アステロイド・シティ』が?)虚構だということを思い出そうとしたかのように。
  • 再会したジェイソン・シュワルツマンと、亡き妻役の女優、すなわちマーゴット・ロビーはそこでセリフを確認する。それはただのセリフ合わせに過ぎないが、しかし間違いなく〈アステロイド・シティ〉という劇中劇を救っている。