呉衣の映画トンネル

映画の感想(ネタバレ有)を置きます

俳優と映画レビュー

 
 
 わたしはセレブやスターを崇拝しない。
 トム・クルーズがノンスタントでアクションをしたからといって、必ずしも映画が面白くなるわけではない。ミシェル・ウィリアムズがかわいいことと、あるいはクリス・プラットがかわいいことと、もしくはジェレミー・レナーがかわいいことと、彼ら彼女らが出演している映画の価値にはあまり関係がない。それらは美しい風景以上の意味を持たないし、美しい風景を撮ることで映画が美しくなるわけではないからだ。
 エマ・ワトソンフェミニストぶりが毀誉褒貶を生んでいるのを見て、あるいは彼女が無駄毛の処理に困っていたというコンプレックスを告白しただの何だのという記事を読んで、虫唾が走る思いだ。
 わたしは基本的にセレブが嫌いだからだ。
 ところで「役者なんかものをいう小道具」と言ったのは日本の映画監督、清水宏である。
 また、これは清水宏の言葉ではないが、「かっこいい役者が見たいならゲイポルノでも見てろ」と言われたこともある。
 我々はここでトム・クルーズのゲイポルノを見るべきなのかという問いの前に立つこととなる。まず第一に、そのようなものは存在してない。第二に、恐らく我々はトム・クルーズのゲイポルノをそれほど見たくない。
 我々が認識すべきなのは、映画を見ることは(しばしばそうなるとはいえ)根本的には俳優のヴァギナやペニスに対する信仰であってはならないということだ。確かに、クリスティーナ・ヘンドリックスの爆乳に引かれて『マッドメン』のDVDを借りてきたり、ヴィゴ・モーテンセンのフリチンに引かれて『イースタン・プロミス』のDVDを借りてきたりすることは、しばしばあることだ(我々はヴィゴ・モーテンセンのフリチンにとても弱い)。「名女優が脱いだ!」コーナーで綿密にパッケージを物色したうえで『氷の微笑2』を手に取り、シャロン・ストーンにフェラをされながらのカーシーンに手に汗握った経験があなたにもあるだろう。
 我々が認識すべきなのは、ちょっとエロい映画を見るくらいなら、ポルノそのものを見たほうがいいということだ。ちょっとエロい純文学を読むより、官能小説を読んだほうがいいように。
 このような意味で確かに「かっこいい役者が見たいならゲイポルノでも見てろ」である。
 そういう主張に対して識者はこう反論するかもしれない。ポルノではない、普通にご家庭に流れるような映画のなかにあるちょっとエロいシーンに興奮するのだと。あるいは、これ見よがしなエロいシーンではなく、何気ない所作を捉えたそれ自体エロくもなんともないシーンにエロスを感じるのだと。あるいは、エロスを感じずとも、好きな俳優が動いている映像がとにかく見たいと。
 確かに、ハードコアポルノにも一部、志の低い作品がまじっていることを認めるべきかもしれない。よく考えればむしろ、その玉石混交ぶりにおいてハードコアポルノを凌駕するジャンルは珍しい。
 ジャンルそのものの制約の強さや、資金不足、教育委員会などからの圧力、地球温暖化、そして無料で見られるネットポルノの氾濫から、ポルノ産業をとりまく状況は芳しくない。専門家ではないわたしでも、そこが玉石混交の場にならざるを得ないことは十分に理解できる。しかし、だからこそたまに見つかる名作には、技術の粋を尽くして娯楽を提供してくれる一部のハリウッド映画に抱くような、畏敬の念に近いものを感じることがある。
 そのような意味で、映画とハードコアポルノは等号で結ぶことが可能だろう。
 映画を見ながら役者の主体性を探すとき、我々はその演技ぶりやアクションぶりを見るだろう。そして、ハードコアポルノを見ながら女優の主体性を探すとき、我々はその演技ぶりやアクションぶりを見るだろう。しかし同時に、単なる被写体として我々にアイスキャンデーのごとくしゃぶりつくされる役者・女優もまた発見されるはずだ。
 肉体はひとつのオブジェとしてみなしうる。美しい俳優は、美しい風景と同様に、ただの素材に過ぎない。もしも映画が芸術作品であるならば、美しい風景をただ映す以上のものであるはずだ。
 このような意味で確かに「役者なんかものをいう小道具」である。
 ここにおいて観客と役者、あるいは監督と役者に権力構造を見出すことを、わたしはしない。
 なぜなら、映画という造形物はそのような単純化された図式では把握できない複雑さを持っているからだ。映画とはすなわち、役者、美術、撮影、照明、衣装、小道具、ロケーション、天候、音楽、脚本、編集、などから構成されたおおよそ2時間程度はつづく映像であり、単純な情報量でいえば小説や絵画など比較にならない。そこには観客と役者、あるいは監督と役者といった二項対立を超えた、遥かに複雑なコミュニケーションの場が用意されている。
 したがって、この一点を押さえればすべてが把握できるというような一点は、映画においては存在しない。やじろべえを指先にのせるような感覚で、映画を指先にのせてはしまえない。あっちを押さえればこっちに傾き、こっちを押さえればあっちが傾くのが映画である。このことをわたしは高校の世界史で学んだ。
 つまり、ヴィゴ・モーテンセンのフリチン見たさで『イースタン・プロミス』を見るという行為は、文字通りの意味でも、芸術的な意味でも、破廉恥な行為なのだ。
 漫画『幽☆遊☆白書』に出てくる仙水というキャラクターは、好きな映画を指して「内容が実に陳腐」と述べつつ「でもエンディング曲がとてもきれい」と語るのだが、これもヴィゴ・モーテンセンのフリチン見たさに『イースタン・プロミス』を見る行為とそう変わらない破廉恥な行為である。
 もちろん、映画俳優を目当てに映画を見るという行為は誰だってするし、わたしもする。
 監督の名前を追って映画を見ていくのに比べると、俳優は必ずしも作品の質の担保にはならないため、ある意味でアーカイヴを掘るのにはいい着眼点だ。作家で見ていくよりも、より実態に近い、玉石混交の映画業界をあなたは目にするかもしれない。
 もっとも、好きな俳優が出ているからといって、死ぬほどつまらない映画を擁護しようとは思わないだろう。あまりに見るべきものがない場合、せいぜい好きな俳優の顔を見つめてみるくらいしか楽しみがないこともある。
 これが、そこそこいい映画になるとどうだろうか。我々はそれを「すごくいい映画」だと錯覚しないだろうか。これは難しいところだろう。
 脳は冷静で、映画という作品から得られる快楽と、美しい風景を見ることで得られる快楽を、混同しつつどこかで区別しているような気もするし、普通にガンガン混同しているような気もする。
 けれどもSNSと連結されたわたしたちのお喋りな口が冷静ではないということだけは確信を持って言える。映画のある部分を恣意的に選び、キャッチコピーを造り、それが容易に俳優へと結びつくことになる。面白おかしくキャラクター化された俳優が、人々を映画館へと走らせる。
 それもまた必要なことだ。
 批評の役目は、人々を映画館へと走らせることである、と誰かが言ったはずだ。
 例えば、Twitterで呟かれる感想と、企業の広告を見分ける方法は、実質的にはない。一四〇字という形式的な制約が、感想をかぎりなくキャッチコピーのようなものに変えてしまうだからだ。
 実際、TSUTAYAとfilmarksはコラボしているので、わたしたちの感想は文字通りの広告となってレンタルDVDの棚に並んでしまっている。きっと「ヴィゴ・モーテンセンのフリチンが最高」などといったキャッチコピーもそこにはあるはずだ。
 クチコミと売上のつながりを意識する人々は、あえて悪いことを口にしようとは思わないかもしれない。クチコミで小規模公開の映画が盛り上がる昨今の環境だとなおさらだろう。我らが内なるセールスマンとしての心が、口汚いののしり言葉を躊躇わせてしまう。
 そのように、わたしたちの感想は、そしてこの文章も、(結果的には)まさしく広告として機能している。ある映画を貶したり褒めたり、時にはある俳優への愛着を語りながら。
 けれども、同時に引き裂かれてもいるだろう。俳優について語ることと、映画について語ることが、似ているようで異なっているということに強く引き裂かれているはずだ。実際のところ、わたし自身はある特定の俳優をテーマに掲げて映画レビューを相当量書いたことがあるのだが(諸事情からお蔵入りになった)、これは極めて難しい作業だった(その「特定の俳優」がカメオ出演をしているならまだ割り切ることができるが、「脇役ではないがそれほど重要な人物でもない」くらいの立場で出演していると、映画レビューとその俳優への言及のバランスが非常に難しくなる)。
 同じようなことをやってみて、その難しさを体験して貰いたい。やはりそれは、俳優が映画の単なる一素材に過ぎないことを物語っている。ある一点だけを押さえて映画を語ることは、本来できないことなのだ。
 もっとも、このブログは怠惰なので、ある一点だけを押さえて映画を語るということをすることもあるだろう。ただその代わり、こちらもこれがただの一個人のバイアスのかかった感想だということをはっきり出すのでどうにか許して貰いたい。