呉衣の映画トンネル

映画の感想(ネタバレ有)を置きます

春の劇

2016/11/21鑑賞

  • 監督:マノエル・ド・オリヴェイラ
  • パンフレットによれば「16世紀に書かれたテキストに基づいて山村クラリャで上演されるキリスト受難劇の記録」らしい。延々と毎年毎年、復活祭にこの劇が演じられてきたというのは正直信じられない思い。セリフは一定の節をつけられた独特の朗読によって行われるため、まるで百人一首の読み上げみたいな調子に聞こえた。
  • 劇の上演をドキュメンタリーとして記録したわけではなく、フィクションとして再構成してある。上演されるまでの村人たちの様子を冒頭に置きつつ、日常からスライドするような自然さで劇に入り込んでいく。劇場があるわけではなく、村のはずれにある丘で行われる。そこに行くまでの場面が面白くて、壷を頭にのせた女性が村の中をくだっていくところは、フィルムの発色といい、音といい、とても猥雑で刺激的だった。劇がすでに始まりつつあり、大声で復唱されるセリフをバックにして人々がわーっと劇に集まっていくまでを捉えた箇所は、これまた猥雑でいい。丘に行くまでは舞台が地理的に確定していないため、劇が作品として自己完結するフレームを持たず、人々の生活や観光客といった外部の侵入を許してしまう。もちろん、そのように劇を解体する立役者は映画のカメラなのだ。したがって、太鼓を叩きながら行進する兵士をとらえた映像が、流行曲をかけながら走る自動車に遮られてしまう、というような場面さえ出てくる。観光客は「これぞ必見よ」、「キリストの受難劇なんて退屈に決まっている」などと好き勝手な意見を述べるのである。
  • しかしながら、いざ劇がはじまってからは、単調な朗読の調子と、村人たちのチープな上演の様子が延々と流されるので正直かなりつらい。演じている村人たちの肉体と、演じられている「受難劇の筋書き」、「キリストやユダ、パウロといった人物」などを含んだ総体としてのテキストが重なりつつも、完全に重なりきらない、というような状況が現れる。「劇映画は記録されたドラマ」、「ドキュメンタリー映画はドラマ化された記録」という表現があるが(確か『映画の生体解剖』で高橋洋が言っていたような気がするが、元ネタはわからない)、オリヴェイラは前者をかなり「記録」に寄せたようなつくりの作品が多いように思える。『春の劇』がそのターニングポイントらしい。わたしとしては『ブロンド少女は過激に美しく』くらい、巧妙なズレが絶えず襲い掛かってくるならともかく、これはきついなーと思った。オチも安易というか、作為的にすぎるように感じられた。